コーデル先生に何百回も練習させられた曲だけあって、指はスムーズに動いた。そし
て、端で聴いているよりも彼女の声が、はっきりと聞こえた。いつもは鍵盤を指で追う
のに精一杯だったが、今日は余裕があった。ふと顔を上げると、楽しそうに歌うファル
さんの顔が間近にある。心から歌うことを楽しんでいる、そんな顔に見えた。
そして、彼女の声がかすれるように消えていき、フォルテールから和音の残滓が抜け
きるまでの時間、彼女の顔をじっと見つめる。
しかし――
「どうしました? アーシノさん?」
変化はなかった。
歌っているときと同じ――ひょっとしたら、歌う前も――人生を謳歌する者の笑みを
湛えている。
その質問は無視して、逆に疑問をぶつけた。
「俺のフォルテールは、どうですか? はっきり言って、上手くないってのは自分でも
わかっているんです。でも……」
「でも、聞きたいですか?」
まるで、そうした質疑をあらかじめ想定していたかのように、淀みのない声でいらえ
がある。
「……ええ。聞きたいですね」
「わかりました」
柔らかな物腰で、ゆっくりと彼女は肯く。優しげな笑顔とは裏腹に、彼女は真実を告
げるだろう。世辞の類の言葉はない。恐れはあるが、知りたいという欲求にはかなわな
かった。
「あなたは、フォルテールが好きですか?」
一瞬の迷いもなく、はっきりとファルさんはそう言った。これは質問ではない。
嫌いですね、と断定されたも同じだ。
「……嫌いですよ」
「なら、なぜフォルテール科に?」
「わかるでしょう? そうするしかなかったんですよ」
「アーシノ・アルティエーレ」
一語一語、区切るように彼女は俺の名前を呟いた。
「アルティエーレというのは……ひょっとして、アルティエーレ家の?」
「ええ……そういうことです。爵位もないし、それほど有名な家でもないんですが……」
その名は、百年以上前の旧体制の遺物だ。多少広い家に住み、多少の贅沢を許される
だけの、ただの人間に過ぎない。
だからといって、無駄に卑下するつもりは毛頭無い。その名に価値を認める者がいる
のなら、利用はするし、ふさわしい態度も取ろう。
ただし今は、そんな虚勢とは無縁だった。
「フォルテールを弾くことができて、貴族でもある……素晴らしいことじゃない」
「でも俺は……それを望んでいないんです」
しかし貴族の本質は、個の意思など意に介さないほど、尊大で、揺るぎなかった。
フォルテールを弾くことの出来る子息がいる、というステータスをわざわざ捨てるこ
となどありえない。
――ではなにをしたかったのか?
そこまで弱さをさらけだすつもりはなかった。
「ま……それでも、あなたとこうしてアンサンブルをすることができたし、今は良かっ
たと思ってますよ」
美しい女性がいた。歌声が素晴らしく、興味を覚えた。卒業演奏のパートナーの候補
として、試しに一度、アンサンブルをした。
……ただそれだけだ。いつもなら甘い言葉でその気にさせるくらいのことはしている
はずだった。しかし彼女に限り、今になってようやくそんな軽口をたたけるようになった。
雰囲気に呑まれてしまった、というのもある。
「ファルさんも、ひょっとして貴族ですか?」
「私? いえ、違いますよ」
「そうですか? でも、物腰とか態度とか、そう思わせるなにかが、あなたにはあると
思いますよ」
「……そうですか」
もう少し喜ぶか、ひょっとしたら顔を赤らめるくらいの効果があるかと思っていたが……。
「私は、違いますよ」
俯きながら、ファルさんは首を横に振った。
「さ、もう一度合わせてみましょう」
まるではぐらかすように、彼女はその場を離れ、戻ってきた時には楽譜を手に持って
いた。
「フォルテール、好きになったんでしょう? それなら、私の曲でも合わせましょう」
「良いんですか? 俺で」
「こんな言い方は失礼かも知れませんが、まだ決まったわけじゃありません。色々な人
と合わせて、それから決めたいんです」
胸のペンダントをたぐり寄せ、彼女は笑顔で言った。
「私にとって音楽は、とても大切なものなんです。だから、絶対に妥協はできません」
「それでも、俺と合わせてくれるんですか?」
「ええ、そうです」
もう一つだけ、質問をしたかったが、できなかった。
なぜ、フォルテールを嫌いだと言った俺と?
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